”外国語にはそんな選択をせずに、自分のことを呼ぶことの出来る言葉がある。英語なら「I」、中国語なら「我」、そしてドイツ語なら「ich」(イッヒ)だ。

 

「自分を呼ぶ際の問題も、わたしの視野から消えた。なぜならわたしはヨーロッパに移住し、もう性の問題について頭を悩ませる必要のない『イッヒ』という言葉を見つけたからだ。『イッヒ』は特定の性を持つ必要がなく、年齢も地位も歴史も行動パターンもキャラクターも必要ない。誰もが自分を『イッヒ』と呼ぶことができる。(中略)この言葉は余計な情報を付け加えることなく、単に話者だけを指しているのだ。(中略)この言葉のように軽くて空っぽな自分を感じたかった。わたしは話たかった、つまり、自分の声で空気に震動を送り出したかった。自分がどちらの性に属するかなど決めずに」

(多和田葉子 訳=松永美穂 『空っぽ瓶』より)

 

私は「空っぽの瓶」を読みながら、自分を「イッヒ」と称することが出来たら、私の性格は違っただろうかと、机に頬杖をついた。

例えば、ひとりぼっちで心細い時に自分のことを「僕」と呼びたいことはなかっただろうか。

虚勢を張って物事を伝えたい時に、自分のことを「あたい」と呼びたかったことは無かっただろうか。

そんな時にもし「イッヒ」と称することが出来たら、私は「わたし」に縛られることなく、物事を伝えられたのだろうか。

言葉は、物事に線を引く為に生まれたものだ。線を引くことで、物事を分かりやすくする為に。

強いのか弱いのか。愛しているのか無関心なのか。大人なのか子供なのか。

私は、「わたし」という言葉で引いた線をもう一度なぞってみた。

「イッヒ」より狭い枠で区切られた「わたし」。分かりやすくする為に引かれた「わたし」。今後も一生使っていく一人称の「わたし」。

私は今、「わたし」と対峙することで、自分も気付かなかった自分と対峙している。

「わたし」は私に問いかけているのだ。「貴方はどんな人なの?」と。”

 

藤崎彩織 「読書間奏文」より

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